サラテのV10を阻止したのは、かつてのスパーリング・パートナー、ルぺ・ピントール(メキシコ)だった。ピントールはサラテほどのパンチの切れはなかったが、やはり群を抜く強打者だった。80年に来日して村田英次郎(金子)と15回引き分け、81年にはハリケーン・テル(石川)に15回KO勝ちを収めるなど8度の防衛を果たした。
アルバート・ダビラ(米)、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)、ミゲール・ロラ(コロンビア)、ラウル・ペレス(メキシコ)、そしてグレグ・リチャードソン(米)と受け継がれた王座は、91年に辰吉丈一郎(大阪帝拳)によって日本にもたらされた。辰吉は当時の日本記録となる8戦目での戴冠を果たし、眼疾により再三のブランクを強いられたが、その後2度の返り咲きも果たして歴史に名を刻んだ。辰吉の休養中に王座についたのが薬師寺保栄(松田)だ。この両者は94年12月、薬師寺が正王者、辰吉が暫定王者という立場でWBC内の統一戦を行い、薬師寺が小差の判定勝ちを収めている。試合前、敵愾心を剥き出しにした両者は激しい舌戦を展開。そのためもあってボクシングファン、スポーツファンのみならず老若男女の興味も引くことになった。試合は流血をともなう壮絶な打撃戦になったが、薬師寺に凱歌が挙がった。もう20年も前のことになる。
薬師寺からウェイン・マッカラー(英)、シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)と継承された王座は97年、再び辰吉がゲットした。辰吉は2度の防衛を果たしたが、戴冠から1年後、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に衝撃的なKO負けを喫して王座を明け渡す。国際式4戦目でWBA王座を獲得した実績も持つウィラポンは、以後05年まで7年の長期政権を築く。この間、西岡利晃(JA加古川⇒帝拳)を4度退けたのを含め14度の防衛に成功。これは40年を超えるWBCのバンタム級史で最多の防衛回数である。