石田の半生.1
そんな時もあるやんか
石田順裕 七転八起の37年
3月30日(日本時間31日)、石田順裕はモナコの首都モンテカルロでゲンナディ・ゴロフキン(カザフスタン/独)の持つWBA世界ミドル級王座に挑む。37歳の石田にとっては背水の陣での挑戦といえる。ここでの敗北が何を意味するかは石田自身がもっともよく理解していることだろう。反面、勝利の際のリターンは計り知れないほど大きいものがあるはずだ。今回は、ボクサー生命を賭けて異国のリングに上がる石田の半生を紹介しよう。※タイトルの「そんな時もあるやんか」は、石田順裕のブログ・タイトルから引用。
アマチュアで116戦
石田は1975年8月18日、熊本県で生まれ、幼稚園のときに大阪に移住した。この前後にグローブに親しみ始め、大阪・興国高校では選抜大会でライト級優勝を飾った。近畿大学進学後や社会人になってからもボクシングを続け、98年には全日本社会人選手権で優勝している。アマチュア戦績は116戦101勝15敗(本人談)という見事なものだった(JBCの年鑑では99勝48KO・RSC15敗)。
大卒後、石田はいったんは社会に出てアマチュア選手として活動を継続していたが、2000年5月、24歳のときに金沢ジムからプロ転向を果たす。
デビューから5連勝を飾った石田は01年3月、OPBFスーパーウェルター級王座を獲得する。初陣からわずか10ヵ月足らずのことだった。このまま一気に階段を駆け上がるのかと思われたが、現実は甘くなかった。2ヵ月後の初防衛戦で王座を失った石田は、その後、日本3度、OPBF1度、計4度の王座挑戦に失敗してしまうのである。デビューから4年後、29歳になった時点での戦績は17戦11勝(4KO)5敗1分というものだった。「いつも1ポイントか2ポイントの負けだったので、『もうちょっと頑張ればいける』と思ってはいたけれど、タイトル戦で計5連敗ですからね。そりゃあしんどかったですよ。何回も諦めかけたけれど、たくさんの人に励まされて続けられたんです」と石田は苦しい時代を振り返っている。
転機はアメリカ合宿
この後、04年12月から6年近く、石田のレコードには白星が並ぶことになる。06年には日本スーパーウェルター級王座を獲得し、川崎タツキ(草加有澤)らを相手に2度の防衛も果たす。186センチの長身と恵まれたリーチを生かしたアウトボクシングが冴え、国内では明らかに頭ひとつ抜け出た存在になっていった。転機について、かつてボクシングモバイルのインタビューで石田自身は次のように話している。「精神的なことを挙げるならば、悔しい思いをしてきた分、周囲を見返してやりたいという意地もあったと思います。具体的な転機というと、アメリカ合宿でしょうね。03年にロスに行ったのが最初です。世界のトップ選手たちと毎日のようにスパーリングをしてスタミナと自信を得たのが大きいと思います」
そのロス遠征だが、石田は薬師寺保栄らが師事したマック・クリハラ・トレーナーの指導を受けるためにネットで同氏の連絡先を調べたうえで渡米したのである。「最初はひとりで行きました。空港でマックさんが待っていてくれたんです。あの当時、このままではダメだと感じていたので、僕は純粋に強くなりたかっただけなんです」そう石田は回顧している。
10回を越えるアメリカ遠征が、その後の石田のボクサー人生を大きく変えた。
つづく
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