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『キッズリターン』や『アウトレイジ』、『あしたのジョー』を始めとした映画のボクシング指導のかたわら、元日本ウェルター級王者の大曲輝斎(ヨネクラ)ら、多くの選手の指導に携わった梅津正彦氏(44)が、7月23日、都内病院で死去した。近年は、お笑いタレントの山崎静代(梅津クラブ)と「めざせ五輪」でタッグを組んでいた梅津氏は、メラノーマという皮膚がんの一種を患って以来、懸命な闘病生活を送っていた。通夜は28日18時から、葬儀・告別式は29日11時30分から東京・芝大門の増上寺にて執り行われる。
昨年の全日本選手権で最終調整を終えた山崎と梅津氏
異色の指導者であった梅津氏が、最後に成し遂げた大業は、山崎静代へ鋭い鞭を打つようだった“苦肉の策”かもしれない。それは「本格的な指導」と「ドラマチックなパフォーマンス」を融合させた故人らしさあふれる一策だった。
山崎が全日本の強化合宿に呼ばれると、同行した梅津氏は、人目をはばからず、山崎を度々怒鳴り散らしていた。
「どうしてそこで打ち返せないんだ!」
「ガードを下げるなって言っただろ!」
練習場は凍りつき、人気のお笑いタレントへ同情する声が増えていった。
できないことまで、激しく説教するのはありえない。
そんな批判がささやかれ、一時期、山崎が癖になっていた過呼吸も、そのせいではないかという声が聞こえるようになった。
2005年9月10日 湯場戦に向け大曲輝斎のミットをとる梅津トレーナー
だが、そんな陰口も、実は梅津氏の狙いどおりだったのかも知れない。同氏は当時をこう振り返っていた。
「しず(山崎)がボクシングをやりたいと言った時、“タレントの売名意識が少しでもあるなら俺は協力しない”って断言したんです。それでも“分かりました、お願いします”というしずは、本気でオリンピックを目指しているのが分かりました。でも、周りを信じさせるには、試合のリングだけではアピール不足だろうと思ったんです」
つまり、梅津氏のスパルタ指導は、第三者へ向けたパフォーマンスの意味でもあったのだ。
2005年9月23日 湯場忠志を1R40秒でKOし日本ウェルター級王座を戴冠した大曲選手と
山崎の芸能活動は大幅に縮小された。そして、梅津氏は山崎と全国の練習場を回り、競技の新人として、高校生の選手たちに頭を下げさせた。
日本ボクシング連盟の山根明氏は、山崎がボクシングを本格始動した当初の印象をこう語っている。
「女子ボクシングがオリンピックに採用された直後、新聞に“しずちゃんメダルを狙う!”って出た時は、正直、彼女の名前すら聞きたくなかった。でも、とにかく一生懸命頑張っていたから、これは認めてあげなければいかんなと思うようになったんです」
また、同氏は梅津氏を以前から「最高のアピールをした」と、半ば策を見抜いたようにも評していた。
日本ボクシング連盟の山根明氏は、山崎がボクシングを本格始動した当初の印象をこう語っている。
「女子ボクシングがオリンピックに採用された直後、新聞に“しずちゃんメダルを狙う!”って出た時は、正直、彼女の名前すら聞きたくなかった。でも、とにかく一生懸命頑張っていたから、これは認めてあげなければいかんなと思うようになったんです」
また、同氏は梅津氏を以前から「最高のアピールをした」と、半ば策を見抜いたようにも評していた。
2007年1月30日 OPBF戦で王座を陥落した西澤ヨシノリ選手と
月日を重ねるほど、山崎の姿勢は、多くの関係者から肯定されるようになっていく。ただ、一方で梅津氏は、少し寂しそうにこう語っていたこともあった。
「全国で会う有名なコーチに、しずの指導をよくお願いしたんですけど……ちょっと失敗だったかなと思ったのは、優しい言葉をかけるほうに、しずの心がなびいちゃうんですよね(笑)」
それでも梅津氏は最後まで厳しいスタンスを変えることはなかった。その反動もあってか、他の指導者たちは、ロンドン五輪予選を兼ねた昨年5月の世界選手権では、最終調整から、とにかく山崎を褒めまくった。
中国・秦皇島で行われた同世界選手権。ボクシング関係者の間では「戦えるレベルに達していない」といわれていた山崎だが、初戦でキックボクシングで実績のあるシャフノザ・ニザモワ(ウズベキスタン)から3回RSC勝ちを収めた。初めてつかんだ栄光への手応え――だが次の試合では、不慣れなサウスポーの選手から左ストレートを浴びまくってレフェリーストップ。あっという間に、夢が潰えた梅津氏は、なかなか泣きやむことのできなかった山崎に、後日、「役不足で本当にごめん」と謝ったという。
「全国で会う有名なコーチに、しずの指導をよくお願いしたんですけど……ちょっと失敗だったかなと思ったのは、優しい言葉をかけるほうに、しずの心がなびいちゃうんですよね(笑)」
それでも梅津氏は最後まで厳しいスタンスを変えることはなかった。その反動もあってか、他の指導者たちは、ロンドン五輪予選を兼ねた昨年5月の世界選手権では、最終調整から、とにかく山崎を褒めまくった。
中国・秦皇島で行われた同世界選手権。ボクシング関係者の間では「戦えるレベルに達していない」といわれていた山崎だが、初戦でキックボクシングで実績のあるシャフノザ・ニザモワ(ウズベキスタン)から3回RSC勝ちを収めた。初めてつかんだ栄光への手応え――だが次の試合では、不慣れなサウスポーの選手から左ストレートを浴びまくってレフェリーストップ。あっという間に、夢が潰えた梅津氏は、なかなか泣きやむことのできなかった山崎に、後日、「役不足で本当にごめん」と謝ったという。
2009年10月3日 OPBF防衛の内山選手と
それから、半年ほど経って、山崎は再起を表明。そのモチベーションを「梅津さんの生き甲斐をつくるため」と語った。
これにより、ロンドン五輪を目指した取り組みが、ピュアなアマチュア精神であったこと、そして、山崎本人には「厳しすぎる指導」の意図が理解されていたことが証明された梅津氏は、嬉しそうにこう語ったことがある。
「しずは本当にボクシングが好きなんです。インドネシアでのスパーリング後、病院に運ばれたときも、問題なしと聞いて“またボクシングができる”って喜んでいたくらいですからね」
4月の『女子ボクシング・チャレンジマッチ』では、かつて歯が立たなかった台湾の選手に文句なしの勝利。梅津&山崎にとって、多くのことが好転し始めたときの、昨日の訃報であった。
これにより、ロンドン五輪を目指した取り組みが、ピュアなアマチュア精神であったこと、そして、山崎本人には「厳しすぎる指導」の意図が理解されていたことが証明された梅津氏は、嬉しそうにこう語ったことがある。
「しずは本当にボクシングが好きなんです。インドネシアでのスパーリング後、病院に運ばれたときも、問題なしと聞いて“またボクシングができる”って喜んでいたくらいですからね」
4月の『女子ボクシング・チャレンジマッチ』では、かつて歯が立たなかった台湾の選手に文句なしの勝利。梅津&山崎にとって、多くのことが好転し始めたときの、昨日の訃報であった。